2008年3月23日日曜日

最後の記憶

名古屋国際女子マラソンが行われた3月9日、僕は名古屋にいた。

正月に会いに行き損ねた祖母を訪れるためだった。その日、父と一緒に祖母の部屋を訪ね、20分ほど話をしただろうか。それが祖母と過ごした最後の時間になってしまった。

そのときのことを、できる限り詳細に記しておこうと思う。

・訪れたのは、祖母の昼食時間が終わった午後1時過ぎ。
・部屋に入ると、祖母はイヤホンでテレビを見ていた。
・僕の顔を見て、だんだん歳をとってきた、と言った。僕はそりゃそうかもしれない、と答えると、学生っぽさがなくなってきた、というようなことを言った。
・ちゃんとご飯を食べているか?大阪はお金がなくても楽しくやっていくことができるからねぇ(これは割といつもの台詞)。
・もう私には、何もあなたに買ってあげることはできないけれど、その分、お父さんにしてもらいなさい。
・日本ハムはおいしい。特にソーセージ。食べる分だけ出して、残りは凍らせておけばいつでも食べられるし、食べるときにはトースターで熱したら脂分も落ちる。
・猪子石、坂下の前には、家を借りていた。そうした家でもあれば来てもらえたのに。
・テレビのチャンネルを、マラソン中継に変えた父を見て、もうスポーツは全く見なくなってしまった、と言った。
・最近の陽気について話をして、桜を見に外に行ったりできるかを聞くと、無理だと。ただ、施設内の桜を皆で見に行くのだ、と言った。

本当に最後の最後まで、自分のことより人のことを心配し、どんな状況でも、凛とした気品を備えた祖母だった。冥福を祈る。

(追記)
通夜と告別式の間の夜、僕は仏前で父と夜を共に過ごした。その時話したことで、印象に残っていることを書いておこうと思う。

父は退職後、ほぼ毎週のように祖母に会いに行っていた。その時には、どんなことを話していたのかを聞いてみた。すると、まあ、当たり障りのない話だ、とのこと。自分たちのことより、周りの人たち、お互いに知っている人の近況などを話すことが多かったらしい。

父は、そういった話の中で、祖母の中の「女」としての部分が感じられて、「自分の母親はこんな女だったのか」ということを感じたらしい。具体的には、あまり詳しく聞くことはできなかったが、自分が生活を共にしている時には、全く「女」として見ていなかった母親の、そうした部分がこの歳になって、お互いに利害的なものがなくなったことで見えてきた、というようなことを言った。

僕が心配だったのは、父が祖母に会いに行くことがなくなることで、生き甲斐のようなものを失い、父があまり外に出なくなってしまうのではないか、ということだった。そこで、父に祖母を失うということはどういうことかを聞いてみた。

すると、父は、飼っている犬が亡くなった時の話をした。犬が死んだところで、その時に感じる悲しみは、それほど大きなものではない。だが、散歩に行かなくなったり、雷の日に大丈夫か心配することがなくなったり、という小さなことが積み重なって、次第にいなくなった寂しさがわかってくる・・・。大体こんな話だったと思う。

犬で例えるとは、という気もしたが、言いたいことは良くわかる。そうしたことは、その時よりも、後々になって、自分の生活の中に、組み込まれていたことが無くなっていくことで、より強く感じるようになるものだと、僕も思う。

亡くなった者に礼を尽くすことも大切ではあるが、生きている者をより大切にしなくてはならない。

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